トップ > 観光・イベント情報 > 文化財・市史 > 宮古島市の文化財 > 県関係
県関係
県指定有形民俗 城辺町の友利のあま井
指定年月日: 昭和56(1981)年3月30日
城辺の字砂川と字友利の境界にあって、友利元島遺跡の西側に隣接する自然洞窟の井泉である。降り口から湧き口までの深さは約20m、自然洞窟井泉の規模としては大きく、水量も豊かである。1965(昭和40)年に城辺で上水道が普及する以前は、この井泉が飲料水を始め、生活を営む上の貴重な水資源であった。水を汲むのは婦女子の日課で、あま井に降りる石段の側面の岩には摩滅してしまったところが数箇所あり、当時の苦労がしのばれる。あま井について、『雍正旧記』(1727年)には「掘年数不明」と記されている。友利、砂川、新里の各元島(旧集落)の住民が、明和の大津波(1771年)以前から現在地への集落移動後も長く利用した井泉である。地域住民の水利用のあり方やその歴史的変遷を知る上でも価値の高い井泉である。
県指定有形民俗文化財 「ウイピャームトゥの祭場(さいじょう)」
指定年月日: 昭和56(1981)年11月5日
砂川集落の南方の上比屋山遺跡内にあるマイウイピヤー、クスウイピャー、ウイウスの籠(こも)りの儀礼に用いられる3棟の家屋は、祭場内の石垣などとともによく保存されていて、宮古の村落祭祀を理解するうえで極めて貴重である。3棟とも側面が琉球石灰岩の石積みで、高さ120~130cm程度の軒の低い造りで、それぞれほぼ南向きで、内部面積は30平方メートル前後、内部には北側の壁にそってイビと呼ばれる香炉を置いた石組みがある。祭神に関する由来については『雍正旧記』(1727年)や『宮古島記事仕次』(1748年)に明記されている。2月籠り、ナーパイ、8月籠り(節祭り)などの主な行事には、ムトゥに属する人々が数日間籠り、籠り家の前庭における船漕ぎ儀礼、ニーリやピャーシを歌う儀礼がある。
県指定有形民俗文化財 「喜佐真(きさま)御嶽(うたき)」
指定年月日 昭和56(1981)年2月9日
下地の川満集落から南東に約200mにあって、『宮古(みやこ)島(じま)御嶽(うたき)由来記(ゆらいき)』(1707年)および『琉球国由来記』(1713年)に記録されている由緒ある御嶽である。祭神を真種子若按司といい、浦島の神であるとされている。拝所は石垣で囲まれ、100平方メートル余の庭と石段と籠(こも)り家(や)、およびムトゥなどがある。拝所内の樹木の伐採、および男性の出入りは、旧暦6月のヤマアキ(山明け)以外は禁じられている。この御嶽で行われる祭祀は、川満の神役による旧暦2月と10月の「世乞い」、旧暦2月と11月の「籠り御願」などがある。喜佐真御嶽は構造、祭祀、由来など各面にわたって宮古諸島の御嶽の特徴をよく残している。
県指定史跡 「ドイツ皇帝(こうてい)博愛(はくあい)記念(きねん)碑(ひ)
指定年月日: 昭和31(1956)年2月22日
港の近くの市街地にドイツ皇帝ウイルヘルム1世の命によって1876年3月20日に建立、22日除幕式が挙行された。1873年7月、宮古島の南海岸・宮国沖合に座礁したドイツ商船ロベルトソン号の乗組員を宮古の人々が助けた。助けられた8人の乗組員たちは、1ヶ月余り看護された後に船を与えられ帰国した。ウイルヘルム1世は、この宮古の人々の救助活動を知ってたいへん感激し、軍艦チクロープ号を宮古島に派遣して、漲水(現平良)港の見える丘の斜面に記念碑を建てさせた。記念碑は、表の上段はドイツ語、下段と裏面は中国語で遭難や救助活動のことを明記している。
県指定史跡 仲宗根豊見親の墓
指定年月日: 昭和31(1956)年2月22日
15世紀末から16世紀初にかけて、宮古の支配者として君臨した仲宗根豊見親が、父、真誉の子(まゆのふぁ)豊見親の霊をとむらうために、築造したと伝えられている。宮古在来の“みゃーか”と沖縄本島風の横穴式の折衷様式で、沖縄本島と宮古のしげき文化の交流を裏づける代表的な墳墓である。
県指定史跡 「上比屋山(ういぴゃーやま)遺跡(いせき)」
指定年月日: 昭和31(1956)年2月22日
砂川集落南、高さ40mの琉球石灰岩丘陵にある14~15世紀の遺跡で、南側の砂川(うるか)元島(もとじま)遺跡(いせき)とあわせて広い集落跡を形成している。遺跡内からは、宮古式や八重山式と呼ばれる土器や青磁、沖縄製陶器、南蛮陶器などが見つかっている。特に青磁が多く、その解釈をめぐって「倭寇の根拠地」説、「貿易で栄えた港町」説、「貿易の中継基地」説などがある。また、遺跡内には、10ヶ所余の御嶽があって、うち3ヵ所は昔のまま石垣の上に茅の屋根が葺かれている。丘陵上にはトゥーンカイフツイス(遠見台)もある。
県指定史跡 「野原(のばる)岳(だけ)の霊(たま)石(いし)」
指定年月日: 昭和31(1956)年2月22日
野原岳の南側中腹にあるが、元もとは頂上近くの北西側斜面におかれていた。霊石は、琉球石灰岩でつくられており、直径が110cm、高さが135cmの円柱形である。およそ600年ほど前、野原岳一帯を支配していた大嶽按司が、守護神としてこの霊石をつくり野原岳の頂上付近にたてたと伝承されている。地元では、この霊石をタマザラ御嶽と呼んで、今でも信仰の対象にしている。古い時代の沖縄(宮古)における霊石信仰を知るうえで、重要な遺跡である。
県指定史跡 「スムリャーミャーカ」
指定年月日: 昭和50(1975)年2月13日
来間集落の南約800mにあるスムリャー(長間家)一族のミャーカ(巨石墓)で、古くは来間大殿ミャーカ、近代にはグンソーミャーカとも呼ばれ、大正時代まで使用されていたという。東西約9m、南北約6.5mの長方形で、高さは2.5mある。上は、3.5m×3mの大きさの板状の石でおおわれている。柱となっている石にはみぞの跡があり、上部に木造の構築物があったかのようにみえる。墓の内部からは、14~15世紀ごろの青磁片等も見つかっていて、ミャーカの特徴をよくあらわしている。
県指定史跡 「下地町(しもじちょう)の池田矼(いけだばし)」
指定年月日: 昭和52(1977)年7月11日
崎田川河口近く、国道390号線に沿っている。この矼は、琉球王国時代、平良から久貝・松原、川満を経て洲鎌、上地、与那覇へ通ずる主要道路の一部であった下地矼道とともに架設されたと伝えられている。『雍正旧記』(1727年)には「池田矼、南北長20間、横3間、高サ9尺5寸村北ノ潟陸原ニアリ」と記録されている。その後、何らかの理由で壊れた矼を、1817年(嘉慶22)に下地矼道とともに大修理を実施したことが、『宮古(みやこ)島在番記(じまざいばんき)』に記されている。琉球石灰岩をアーチ型に積み上げて造ってある。1977年段階で伝承では、400年、文献上の記録では260年余の歴史を有し、今日まで堅牢さを誇っている。
県指定史跡 「高腰(たかうす)城跡(じょうあと)」
指定年月日: 平成3(1991)年8月2日
宮古島の東海岸側、比嘉集落北の丘陵(高さ113m)の頂上部分につくられた城跡である。 東西約70m、南北約40mの大きさで、自然の石をそのまま積んだ城壁の礎石が残っている。『雍正旧記』(1727年)や『宮古嶋記事仕(みやこじまきじし)次(つぎ)』(1748年)等の宮古旧記類には、この城の城主が高腰按司(たかうすあず)であったことや城の大きさなどが明記されている。発掘調査によって、13世紀~15世紀の土器、陶磁器、古銭、鉄製品などが確認されている。グスクとしての遺構をよく残し、また琉球王国の勢力が及ぶ前の宮古のようすを知るためにも重要な遺跡である。
県指定天然記念物 「国仲(くになか)御嶽(うたき)の植物群落」
指定年月日: 昭和49(1974)年3月18日
国仲集落の東200m、伊良部中学校の東隣にある。正面の鳥居から幅約1.5m、長さ約90mの参道があり、その奥に約10m四方の石垣で囲まれた広場がある。広場には壁が石積みで屋根がコンクリートスラブ打ちでできた祠(ほこら)があり、祠の左右には獅子像がある。周辺には胸高直径25~45cmのフクギ、コクテンギ、リュウキュウコクタン、ヤブニッケイ、ツゲモドキ等の大木が生育している。また、境内全体は、高さ8~9mのタブノキ、センダン、オオバキ、ヤンバルアカメガシワ、リュウキュウマツ等におおわれ、60種程の植物が繁茂(はんも)している。これまで拝所として保護されているため、全域がうっそうとして、宮古諸島でももっとも自然林に近い林相を示す森林になっている。
県指定天然記念物 「東平安名岬(ひがしへんなみさき)の隆起(りゅうき)珊瑚礁海岸風衝(ふうしょう)植物群落」
指定年月日: 昭和55(1980)年4月30日
宮古島の東端太平洋に突出した東平安名崎は、環境によく適応した特殊な植生と分布の限られた植物が生育する学術上貴重な岬である。長さ約2km、幅約250m、高さ約20mの琉球石灰岩よりなる台地状の地形をなしている。植物は潮風等のきびしい環境にさらされ風衝地特有の植生を発達させている。特にテンノウメの優先する群落は他に例をみない程広く、他にミズガンピ、コウライシバ、ハマボッス、クサトベラ、アダン、イソマツ群落がある。
テンノウメ群落は、海崖上を中心に一見ふんわりおおっているが、実際はコルク層の発達したかたい茎がギザギザした石灰岩上を網の目のようにはい、植物体を低くしてきびしい環境にたえている。222種の植物が確認されており、植物地理学上珍しい種類も含まれている。
県指定天然記念物 「宮古馬(みやこうま)」
指定年月日: 平成3(1991)年1月16日
宮古馬は体の高さが120cmくらいの小型の馬で、頭が大きい割には胴体の後部は貧弱である。足は強く、ひづめは太くて堅い。毛色は糟毛で多く、鹿毛や栗毛も見られる。性質はおだやかで、体は丈夫、病気にも強く、粗食に耐えるなどの特徴を持っている。宮古馬はどこから持ち込まれたのかは不明だが、長い歴史の中で農耕その他に利用され、沖縄の気候風土にあわせて変化してきた馬と考えられる。近年の農耕等の効率化に伴う大型馬への改良や、近代化に伴う農耕の機械化や運搬手段の合理化等の中で、急速に減少しており、宮古馬保存会が設置されなどの増頭策がはかられている。
県選択無形民俗文化財 「池間島のミャークヅツ」
選択年月日: 昭和56(1981)年1月26日
毎年旧暦8月~9月の甲午の日から3日間にわたって、4ヵ所のムトゥ(真謝(まじゃ)・上げ桝(あげます)・前(まえ)ぬ屋(やー)・前里)を中心に行われる池間島最大の祭祀である。各ムトウの祭儀は、55歳以上の男性で構成されるムトゥヌウヤ達を中心に年齢階梯的組織で運営される。期間中、各ムトゥに所属するムトゥヌウヤ達は、早朝4時~5時ごろムトゥに集まって、酒を酌み交わしながらひとときを過ごす。2日目早朝には、前年のミャークヅツ以後生まれた乳児を家族がムトゥの祭祀集団のメンバーとして登録するためのマスムイの祭儀がある。また、この日は老若男女がウパルズ御嶽に参拝する。男性が入れるのはこの日だけである。夕方真謝ムトゥを先頭に、各ムトゥヌウヤ達が、池間と前里の境界にある水浜の広場の所定の位置に座り、ツカサンマ達によるクイチャーが踊られたあと、ムトゥヌウヤ達はじめ、一般参加者をまじえたクイチャーが盛大に演じられる。