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史跡1~25

市指定史跡 漲水御嶽と石垣

指定年月日: 昭和49(1974)年8月29日

漲水御嶽と石垣

宮古島創世の神話並びに人蛇婚説話等にいろどられ、古代宮古人の源流をさぐる上からも貴重な御嶽である。南側石垣は目黒盛の玄孫・仲宗根豊見親(中導氏)が1500年中山王府の先導で、八重山のオヤケ赤蜂征討にさいし、神霊の加護で勝利したら神域を整備、奉納しようと警願、めでたくがい旋した戦勝記念に築いたと、忠導
氏本宗家譜にでている。オヤケ赤蜂征討は賛否分かれるところであるが。石垣そのものは直接には民衆の労働の成果であり、当時の石造技術を知るうえでも貴重である。

市指定史跡 観音堂(かんのんどう)経塚(きょうづか)

指定年月日: 昭和49(1974)年8月29日

観音堂経塚

観音堂は1699年の創建で、定納船上下の安全祈願として崇敬をあつめたと伝えられる。前庭にある経塚は、宮古における仏教伝来の事跡をかたちあるものをもって示す数少ない遺跡の一つである。碑文は、オモテ「経呪嶺」、ウラ「雍正丙辰冬白川氏恵道建焉」とある。雍正丙辰は雍正14年(乾隆元1736)で、観音堂建立より37年後のことである。白川氏恵道は家号上地野、雍正9年(1736)~乾隆2年(1737)まで平良ノ頭職をつとめており、頭在任中に建立したものである。

市指定史跡 漲水石畳道

指定年月日: 昭和49(1974)年8月29日

漲水石畳道

18世紀の始め、宮古の治山、土木工事が精力的にすすめられていたころ、各村むらの道路巾は2間半に拡張、改修、あるいは新設されたと伝えられている。1696年大地震のあと土木工事の一環として、石畳道も2間半に拡張され、治山事業の中で豊富に得られたであろう石を切り敷きつめたものと推定される。旧藩時代の政庁である「蔵元」南側にそって漲水御嶽前から祥雲寺北東の辻まで続いていた。廃藩置県後もほぼ完全に残っていたが、平良港築港(大正10年)、宮古神社移転(昭和17年)
にともなう工事並びに第二次大戦、ついで戦後の道路工事等で損傷、現在およそ3分の1を残すのみとなっている。

市指定史跡 下地(しもじ)仁屋(にーや)利社(りしゃ)の墓碑(ぼひ)

指定年月日: 昭和49(1974)年9月12日

下地仁屋利社の墓碑

1879年(明治12年)、廃藩置県当時、旧藩吏を中心としたはげしいい反対のなかで政府に協力した下地仁屋利社は、群衆に殺された。遺体は腰原嶺のアブに捨てられたが、警視派出所員の手によって、那覇の護国寺に葬られたという。世にいう“サンシー事件”であるが、利社が新時代にいち早く賛成したことでサンシー事件とよばれたようである。碑文によれば利社は7月8日警視派出所につとめ、わずか2週間後の22日にころされた。1921(大正10)年、利社の弟利及が西仲宗根東上原の一族の墓に改葬、墓碑は下里の生家の門脇に立てられていた。
宮古の近代をつげるころの世相ならびに群民の動向を知るうえで、貴重な墓碑である。

市指定史跡 サバウツガー

指定年月日: 昭和50(1975)年8月1日

サバウツガー

直径1.5m、深さ4.5mの石積みの井戸とその周辺地域、それに、井戸までの階段も含めて指定されています。
昭和41年8月の簡易水道が敷設されるまで、240年以上の佐良浜の人達の生活用水として活用されてきた井戸です。
名前の由来は、池間島から見た地形が鮫(サメ)の口に似ていることからサバウツと名付けられたものと考えられます。
サバウツガーまでの石段は124段あったと言われています。
井戸を発見したのは、「ミャーギ立の金大主」と「フッズゥーの松大主」の二人で、サバウツバンタ(バナタ)での野良仕事の合間に、水の音を聞き、発見したと言われていますが、潮により、塩辛さがことなり、飲料水としては適していません。
鍛冶技術や石工技術を知る上からも貴重な史跡です。

市指定史跡 祥雲寺の石垣

指定年月日: 昭和50(1975)年12月11日

祥雲寺の石垣

祥雲寺は薩摩藩の建議で1611年山月和尚によって開山された。
当時の寺域はどの程度であったかさだかではないが、1685年になって住職の輪番制(3年交替)を設けているところから、寺域もしだいに整備されてきたものと推定される。
「球陽」は1696年の大地震の際、寺院等の石垣が崩れたことを記しており、このころすでに祥雲寺に石垣があったことを示している。
18世紀初頭、宮古では全域にわたって大規模な土木工事が進められており、このとき祥雲寺の石垣も改めて築かれたものと考察される。戦災はじめ都市計画等によって、平良の街なみは大きく変貌、石垣も消滅」しつつあるいま、当時の石造文化を知る上からも重要な建造物である。

市指定史跡 盛加がー

指定年月日: 昭和50(1975)年12月11日

盛加がー

水道の発達しないころ、人びとの生活用水は天水と各所に散在するうりがー(洞井)であった。集落はうりがーを中心に形成、発達してきており、宮古の歴史はうりがーを切りはなして考えることはできない。
盛加がー内には小規模ながら貝塚層もあり、周辺一帯からは多くの青磁片、土器片等が豹変採取でき、大きな集落跡を物語っている。
郷土史家の稲村賢敷氏は、14世紀後半勢力をふるった与那覇原一党の本拠地をここ盛加がー一帯にもとめているが、異説もあってさだかではない。
盛加がーは、平良近郊ではもっとも規模の大きいうりがーで、石段は103段設けられ、婦女子の踏みしめた跡を残している。

市指定史跡 大嶽城跡

指定年月日: 昭和51(1976)年7月5日

大嶽城跡

14世紀の中頃、宮古島に猛威をふるった与那覇原軍にほろぼされた大嶽按司の居城の跡である。
城址公園内の東側にある御嶽が大御嶽(ウプウタキ)で祭神はピギタリユーヌヌスである。ピギタリは、按司の長男で戦乱の世相を嘆いて農業に励んだ。二男の知呂按司は、与那覇原軍との戦いで東の門(中御嶽)を守って戦死し、三男の全丸金按司も西の門(西御嶽)を守って戦死した。長男のピギタリは武芸を嫌い戦いからのがれて平屋久峰にかくれて住み、作物を作って「ウパアラス原」開拓に力をつくし、後の野原村再興の基礎をつくり“ユーヌヌス”として後の人々からあがめたてられ大御嶽(ウプウタキ)に祭られている。
前井、ツガ井、石畳の道などは中世の宮古の石工技術を現在に見せてくれる。前井は現在の野原部落が村建(すまだてぃ)した頃(1718年)に改修されたと雍正旧記に記録されている。

市指定史跡 御船の親御嶽

指定年月日: 昭和51(1976)年7月5日

御船の親御嶽

「宮古島旧記」に、「野崎真佐利南の島より道れ帰りし事」と題する記事がある。御船の親は船頭として琉球へ上り、帰途逆風にあって南のアフラ島に漂着した。水主、野崎真佐利は島の女に取合って夫婦の契りを結び、島の風俗を女から教えられたが、御船の親は殺された。真佐利は女の協力によって島を脱出し、御船の親の首を新里まで持ち帰ることができた。
この御嶽は持ち帰った首を納めたミャーカ墓の跡である。
アフラ島とは、台湾の東の洋上に浮かぶ小さな「緑島(火焼島)」を目指すとのことだが、緑島には同様な伝承等はないという。

市指定史跡 西銘御嶽

指定年月日: 昭和52(1977)年3月16日

西銘御嶽

増原集落の西北方およそ1kmほどの丘陵上にあって、北方は要害堅固な断崖で海に面し、さらに西方は白川浜へと通じている。崖下に“サガイ井”、さらに下って海よりに“カナギ井”と俗称するふたつの井戸がある。御嶽のまわりに城壁とみなされる石垣の跡をみることもできるが、全体の規模ははっきりしない。
ただし、周辺には畑地をふくめて青磁片、南蛮陶片が広範囲に表採でき、井戸の所在等からして、かつての集落の跡を物語っている。なお郷土史家稲村賢敷氏は、西銘按司の居城地ははじめ、この西銘御嶽の地であったが、手ぜまなためのちに飛鳥御嶽の地に移ったものであろうとの説をたてている。

市指定史跡 島尻元島とンナカガー

指定年月日: 昭和53(1978)年2月7日

島尻元島とンナカガー

島尻元島は現在の島尻集落の発祥地であると伝えられている。この元島は旧10月~12月に5回、島立の先祖をまつる神事が催されることでしられている。この元島の住民がいつ頃どこからやってきてこの地に住みついたのか定かでない。第二次世界大戦直後までは6,7世帯が住んでいたが、現在では全世帯が元島を離れてしまい、その屋敷跡だけが残されている。元島は海岸に面した周囲に石垣が積まれており南南西に向いて出入口が一つある。この出入口には戦争直前まで石積みのアーチ門があった。元島内に井泉はなく、元島から南へ20Kmほど離れた畑の中に元島住民が使用したと推定される井戸(ンナカガー)がある。また、北崖下には貝塚がある。この元島の表土からは宮古式土器、青磁器、南蛮焼等の破片が採取されることから、元島住民はこれらの焼物等を使用していたと思料される。
 現在、宮古島にいつ頃から人々が住みついていたのか研究者のあいだで色々な議論がかわされているが、この元島もそれを解明する上での1つのてがかりとなる。

市指定文化財 四島の主の墓

指定年月日: 昭和53(1978)年3月6日

四島の主の墓

現在、狩俣には「四島の主の墓」といわれている墓が四ヶ所ある。この墓は、そのうちの1つである。
この墓は、島尻、大神、狩俣、池間の四邑が遠望できる丘陵上にある。この墓の構ツガ墓に似ており、周囲には石積みの外郭が二重にめぐらされ、南々西に向かって一枚岩をのせたアーチ門が築かれている。また、墓室は一室で墓口が2つ設けられている。この墓は近年まで「四島の主」の子孫により代々使用されてきたと伝えられている。「四島の主」とは狩俣、島尻、大神、池間邑の支配者の俗称で雍正旧記には「昔、狩俣四島の親童名百佐盛と申す人は狩俣、島尻、大神、池間合わせて四ヶ村壱人にてかけ候に付き、四島之親と偽申由候」と記されている。また、「四島の主のあやぐ」には「何からが如何からが親なたよ、墨からど筆からど親なたよ」と歌われており、「四島の主」は文筆にすぐれていたことがうかがわれる。
「四島の主」は仲宗根豊見親の支配下にあって仁政を施したが、その業績としては狩俣・島尻を結ぶ「渡地橋」築造のほか農道の改修、狩俣・平良間の休憩所設置および井戸の掘削等が伝えられている。

市指定史跡 スサビミャーカ

指定年月日: 昭和53(1978)年3月15日

スサビミャーカ

字伊良部の東方340mの所にあり、1600年頃建造されたと推定されています。
現存するミャーカ墓地の中では、規模がもっとも大きく、石工技術も優れています。
外囲いの石垣は二重になっており、外垣は東西10.8m、南北7.2m、高さは1.8mで畳大の巨石を積み上げています。
内囲いの石垣とふたつの壁は、厚さ21cm程度の巨石をかたく立て、きれいにならべられ内囲いの石垣の高さは、外囲いの石垣より30cm程高くなっています。
石棺の構造は、棺のよっつの壁石、底板石、蓋石、ともに一枚の石板石で、石棺の大きさは、内距(内側の長さ)が縦90cm、横1.5m、深さ(高さ)75cm位で、底石は、石棺に水や汚物がたまらないように壁石との接目に一ヶ所だけ隙間があります。
 石材を加工するには、金属(鉄)が必要であったと思われ石工技術を知る上で貴重な遺跡です。

市指定史跡 鏡原馬場跡

指定年月日: 昭和54(1979)年2月6日

鏡原馬場跡

鏡原(かがみはら)小学校の東南約1km旧(きゅう)城辺(ぐすくべ)街道の北沿いに位置する。この馬場は物納税として宮古・八重山島民を苦しめた「人頭税」の廃止と深い因縁を持つところとして伝えられている。
1887(明治20)年ごろから、宮古農民の間に「島政改革・人頭税廃止」を要求する農民運動が展開された。人頭税撤廃運動は旧支配層、官権の厳しい弾圧を受けたが、宮古30余村の農民は結束を固め、明治政府並びに国会への請願代表として中村(なかむら)十作(じゅうさく)、城間(ぐすくま)正安(せいあん)、平良(ひらら)真(も)牛(うし)、西里(にしざと)蒲(かま)ら4名を上京させ関係要路に陳情させた。1894年(明治27)年、人頭税廃止の確約を得て一行が帰ると、農民は総出で漲水港に迎え鏡原馬場において盛大な祝宴と競馬(ヌーマピラス)やクイチャーなどを催し宿願達成の喜びを分ち合ったと伝えられている。

史跡 「ドイツ商船遭難之地碑」

指定年月日: 昭和54(1979)年3月9日

ドイツ商船遭難之地碑

明治6年(1873年)ドイツ商船ロベルトソン号が福州からオーストラリア向け出航したが、台風にあい宮国の東沖10余の大干瀬に座礁し難破した。
宮国の人々は荒れ狂う激浪の中に、危険をおかして救助し、34日間親切ていねいに手厚くもてなし、帰国させた。ドイツ政府は宮国の人々の純情に感激し皇帝ウイルヘルム1世は、明治9年軍艦を派遣して平良市親腰に謝恩碑を建立させた。
この事は、昭和12年発行の文部省“尋常小学修身書巻4”に「博愛」という題でのせられ、全国の小学校で教材となった。
昭和1年は明治9年から満60年に当るので、宮古郡教育部会では外務省の協力で大阪市在住の下地玄信氏を委員長に新たに遭難現場に遭難記念碑を建て盛大な式典が挙行された。
この碑は、近衛文麿公の筆による“独逸商船遭難之地”という辞を刻んだもので大阪市の石材店でつくられたものである。

市指定史跡 アナ井(がー)

指定年月日: 昭和54(1979)年3月9日

アナ井

雍正旧記に“東井、洞井にあって掘年数不明”とある。
宮国村の番所跡の東に位置しているので当時は役人たちによって「東井」と呼ばれていたらしい。
水道が普及するまでは、宮国住民の生活を支える貴重な水資源であった。
夜も昼も、ひっきりなしに人が集まり、水くみ、洗濯、水浴などでにぎわっていた。

市指定史跡 アマ井(がー)

指定年月日: 昭和54(1979)年3月9日

アマ井

雍正旧記に“あま井、洞井であって掘年数不明”と記されている。
東のアナ井とともに、宮国住民の貴重な水資源となっていた。
1956年から1962年頃まで、ポンプを使用して旧上野村内に簡易水道として給水し村民生活向上に大きな役割をはたしていた。

市指定史跡 テマカ城跡

指定年月日: 昭和54(1979)年3月9日

テマカ城跡

城辺、保良の東平安名崎からトユミャが石を投げて一夜のうちに石垣が築かれた、との伝承がある。大正の頃まで高さ6~7尺もある石垣が存在していたといわれているが戦後の土木工事の材料としてほとんど持ち去られた。
中の御嶽の祭神は、ヤマトガムキ゜リウヌスと呼ばれている。久場嘉按司とたびたび合戦したが力及ばず敗北したとの伝えもある。
上野の人々は「テマカマキ゜」と呼んでいるが、牧場のマキ゜であるのか、あるいは一定範囲を意味したマキ゜であるのか明らかではない。
郷土史家の稲村賢敷氏が「倭寇」の隠れ家らしいとの説を発表され、以後テマカ城跡名で知られている。

市指定史跡 好善(こうじん)ミガガマ御嶽

指定年月日: 昭和54(1979)年3月9日

好善ミガガマ御嶽

「宮古島旧記」に「久場嘉按司(くばかあず)が女子普門好善の事」と題する記事がある。
「コージンミガガマ」は美人ではた織りの名手であった。沖縄から来た商人が思いを寄せ、ミガガマの女中と相はからってミガガマと通じ、男の子を産んだ。その子が夜泣きをするので、ミガガマが「沖縄ユララ(さすらい者、宿なし子)の子がなぜ泣くのかトミル、トミル」と言う。それを聞いた男は怒って、私はユララではない。りっぱな商人だと言い、子を奪って船出した。
ミガガマは我が子の名を呼びながら沖行く船を追い海中に溺死したとの伝承がある。
ミガガマ御嶽はミガガマの屋敷跡だという。久場嘉按司の貿易上の別館だったのだろうか。

市指定史跡 下地島巨岩(帯岩)

指定年月日: 昭和54(1979)年6月1日

下地島巨岩(帯岩)

径59.9m、高さ12.5mの巨石が下地島の西海岸に座しています。
重さは、約2万トン、オコスクビジー(大きな帯をした岩)、域いはヌーマミージー(馬の番をする岩)、帯大岩の名で親しまれています。
1771(明和8)年明和の大津波の時に打ち上げられたと言われています。
津波の高さは、およそ40mで、マグニチュードは7.4で、自然災害のスケールの大きさを痛感させられます。帯大岩のような巨岩は、その他にもウシミージー(牛の番をする岩)等もありました。津波で打ち上げられたと思われる岩は、他にも数多くありましたが、下地島空港建設の際に利用された。
民間信仰の「神体」として崇められるようになり、大漁祈願や家内安全の祈願が行われるようになっています。

市指定史跡 ヤマトブー大岩

指定年月日: 昭和54(1979)年8月3日

ヤマトブー大岩

伊良部島の東側、牧山展望台の下にあるトラパーチンの巨石をヤマトゥブーギスといいます。
高さ25m、直径18m、重量3万トン余り、最初に伊良部に人が住み着いた下牧(積上・ツミャギ)の海岸へ出入り口の目印であったと思われます。
名前の由来は、はっきりしていません。
石は、友利石灰岩が、断層などの地穀変動で地上に露呈したもので周辺は、トラパーチンが露出しており、傍の牧山からは、昔採石をした跡が残っています。
また、付近はミヤコトカゲの生息地です。ミヤコトカゲは、伊良部ではこの地域にしか生息していません。国内では、宮古がはじめて確認されたので、この名が付けられています。

市指定史跡 アラガー

指定年月日: 昭和55(1980)年6月26日

アラガー

字佐和田の西側にあり、佐和田ではもっとも古い井戸です。
縦8m、横6m程の敷地に直径1.8m、深さ4~4.5mの井戸です。
昔、この辺一帯は広範囲にわたって雑木林が発達しており、入江側は塩田が発達していたようです。
起源は、鳩が雑木林にしきりに出入りしているので、この井戸を見つけたと言われ、一名「鳩の見つけ井戸」とも言われています。
この井戸が発見された事によって、元世乞(ムトゥユークイ)周辺にあった集落が現在地の家後原に定着していたと考えられます。
構造は、湧き水の縁を石で囲った簡単なものですが、大親時代に大きく改修され現在の佐和田の集落形成の元になった重要な井戸です。

市指定史跡 川満(かわみつ)大殿(うぷとぅぬ)の古墓(ふるばか)

指定年月日: 昭和51(1976)年11月1日

川満大殿の古墓

洲鎌部落東方の森の中にある巨石を積んだミャーカがある。ここが川満大殿とその妻が眠る巨石墓である。1500年~1550年ごろ築造されたといわれる。
平民として田舎に生まれた川満大殿が、一躍下地の首長に任ぜられたことは、かつて例のない出世である。大殿は、トラ年の人と言われているので、長禄2年天順2(1458)年生まれと推定される。
 宮古の首長仲宗根豊見親の認める所となり、その知遇を得てついに下地の首長に任ぜられた。大殿として残っているのは、弘治11年(1498年戌午年)仲宗根豊見親の命を受け、ベウツ川堀割工事により嘉手苅南部水溜りの汚水を排出して病原をたち、併せて広大な農耕地を拓いて勧農に力を尽くし永正3年正徳元(1506)年には、加那浜に前代未聞の一大土木工事を起こして橋道を築造して庶民の苦難を除き、若くして非業の死を遂げた義人、川満村の真種子若按司を庇護して、慈悲人情の手本を示し、更に八重山の赤蜂征伐、与那国の鬼虎との戦に従軍して戦功をたてる等、将に智仁勇兼備の巨人で下地の生んだ偉人である。

市指定史跡 来間川(泉)

指定年月日: 昭和51(1976)年11月1日

来間川(泉)

来間集落北側の断崖絶壁に百段よりなる道がある。この道を下る幾十尺の絶壁下からこんこんと湧き出る島唯一の泉こそ来間住民の生活に密着する命の綱である。
何時の頃からか泉の中に樫の木があり、かつてそれを取り除いたら水が出なくなって大騒ぎをしたという。早速ユタに頼んで神に御伺いを立ててもらったら、神木樫の木を取り除いたためだとの神託であった。早速神意にしたがい元通りに樫の木を入れたら、不思議や再び水がこんこんと流れ出て今日に至っているという。
ヤイヤヨーイ来間ぬヨーイ百年(ムムテ)なす 樫木棚ヨ んみてんな 巾してんな うがまりさまるん
来間川ぬ 百段(ムムテ)巾 ふんがつなんめえ うわがこと かなしやがことど思うよ
あも絶壁の段々を水を運びながら登ったり下ったりする苦労も、いとしい君を思えばこそ寸時もあなたのことは忘れないとの意味である。
来間川は、来間の社会生活の動かすべからざる重点をなしている。
昭和50年に宮古本島より海底送水が行われ、今日ではこの泉の水を使用することはないけれど、何百年か島の暮らしに欠くことが出来なかった。
水運搬の不便さや節水等、昔をしのぶ史跡として後世まで保存することが望ましい。

市指定史跡 与那覇支石墓

指定年月日: 昭和51(1976)年11月1日

与那覇支石墓

1365年頃平良の漲水の浜辺で、目黒盛との戦いに敗れて与那覇に逃亡した与那覇原一族の共同墓地といわれている。
中級のミャーカで斧やのみによる石工の跡はあるが技術的には上級ミャーカに劣っている。構造は高さ1.25m、横2.7m、奥行2mで、中は空洞になっている。
築造年代は不明。